ひがし茶屋街で有名な神社と言えば宇多須神社になるが、その斜め向かいには菅原神社という小さな神社もある。
その小さな神社に小さな狛犬がいたのだけれど、その顔が死線をくぐり抜けてきた歴戦の猛者のように負傷していた(削れていた)。
痛々しくも凛々しくもあるその顔を撮ってきた。
ひがし茶屋街の菅原神社だ
ご覧のように境内は広くない。
鳥居をくぐるとさらによくわかる
社殿と、右手に車を停めるくらいのスペースしかないのだ。
そしてすでに見えているように、小さな神社だけに狛犬も小ぶりだ。
なお、この神社には手前の狛犬一対の他に、社殿の柱の陰にもう一対の狛犬がいる。
どちらも損傷があり年季がうかがえる。
手前の狛犬から
吽形の狛犬と
阿形の獅子だ
小型犬のようなサイズであり、かわいさだ。
ただ、よく見ると顔が削られている。
ガッツリと削られている
こういう表現を使うとホラーのような響きになるが、顔の半分が削がれて右目はない。
顔の左側半分だけを見る限り口が結ばれているのでこちらが吽形のようだとわかる。
こちらから見るとのっぺらぼうだ
それでもこちらから撮ると凛々しいものだ
首下から見えるたくましい胸筋と合わせてもともと一つ目の生き物であるかのような迫力。
顔だけではなく腕にも傷がある
歴戦の猛者はだいたい全身にいくつもの傷を持っているものだ。
阿形もチェック
削られ方は違うが、同じく顔面が損傷している。
こちらは窪んだようにも見える。
「それがどうした?!」と言わんばかりの形相
こちらから撮るとなかなか荒々しい絵になる。
鼻がなくても目つきは死んでいない。
左目下の唇が削がれて狛犬の舌が確認できる。
狛犬の舌って根元の方までちゃんと作られているようだ。
それにしても阿吽で顔の右側、左側がそれぞれ失っている。
これも阿吽の呼吸と言うものだろうか。
細かな腕の傷と一円玉五枚
何故か一円玉が五枚置かれていた。
社殿のお賽銭箱がちょっと分かりづらいのでこちらに置いたのか、それとも傷だらけの狛犬たちに同情して置いたのか、いろいろと想像してしまう。
なお、これらの狛犬は大正十五年5月に作られたと彫られてあった。
もう90年が経つわけだ。
観光客も多いこの東山茶街で過ごした90年の年季が顔面や腕に現れている訳だ。
石工は「田中㐂市」とあった。おそらく「たなかきいち」と呼ぶと思われる。
奥の狛犬も確認
顔が損傷しているだけではなく、石が風化してところどころで彫刻が潰れている。
まるで石灰を頭からかぶったかのように全体的に白い。
それらはこんな所にいる
狛犬らしき姿勢を取っている彫刻であることはわかると思われるが、本当に狛犬だろうかと目を疑ってしまう。
寄るとまたすごい
こちらは阿形の獅子だが、顔の右頬の当たりから耳にかけて削がれ、それ以外の顔面も原型が分かりにくい。
犬で例えるとまるでチャウチャウだ。
また、まっすぐ台座に鎮座しないのか小石が足元に挟めてある。
顔のアップ
これまたホラーな言い方をすると、酸をかぶって溶かされたような顔面だ。
原型がわかりづらいが、牙があったことは確かで、この口の開き方から見て阿形であることも想像できる。
胴体はまだ狛犬をしている
石の表面の風化はあるものの、彫刻が潰れていることはなく、髪のクルクルや立った尻尾がちゃんと確認できる。
これらが確認できなかったら、この像を狛犬として認めることは感覚的に難しいのではないだろうか。
反対側の吽形
こちらはまだ見た目が狛犬らしい姿をしている。
口の作りを見る限りこちらが吽形で間違いないだろう。
寄ってみるともれなく損傷がある
こちらの顔面は削がれたというより溶けたといった印象だ。
足元はまるで台座と同化しているかのよう
大蛇にでも丸呑みにされて消化液で中途半端に溶かされたところで救出されると、こんな感じになるのではないだろうか。
それでいて胴体に関しては人為的にとも取れる傷が散見される。
首元の傷
碁盤の目のような傷まである。
顎には刀傷のようなものも。
この狛犬に何があったというのだろうか。
背中から腹にかけてがまたすごい
一度断裂したかのような跡だ。
表面の傷が黒くなったのか、割れたものをくっつけたのか謎だ。
まとめ
このようにひがし茶屋街の菅原神社の狛犬は4体ともカラダに大きな傷を持って、特に顔面は原型がわからないものばかりだ。
その理由は今回社務所に訊ねていないので自分にはわからない。
ただ、この神社の狛犬にはこんな言い伝えがあるので、一つ想像できることがある。
というのも、ここの狛犬にははっきりと性別が設けられているようで、オスを女性が撫でると、その女性は幸せになると言われているのだ。
触られ、撫でられ続けたがゆえにここの狛犬たちは顔面が削がれていったとも考えられる訳だ。
なお、どちらがオスかは見ればわかると言われている。
見ればわかるようなのだ
もし、この女性たちに触れられ撫でられ続けたからという想像が確かなら、男からすれば羨ましい話である。
確かにある意味歴戦の猛者であると讃えたくなるのであった。