石川県七尾市の中島町(旧鹿島郡。2004年に七尾市に吸収合併)には熊甲祭(くまかぶとまつり)という重要無形民俗文化財として国から指定されている祭がある。
20メートル近いでっかい旗が町を練り歩くので「枠旗祭」(わくばたまつり)、また毎年必ず9月20日に行われるので「二十日祭」(はつかまつり)とも呼ばれている。
天狗の面をつけた猿田彦が踊りながら先導するさまは異国情緒があり能登でも奇祭とされている祭りだ。
中島町は祖父母の家があるところなので、自分も子供の頃にこの祭りを何度か見に行ったことがある。平日休日関係なく必ず9月20日に行われるため大人になってからは随分と縁遠くなっていたが、改めて見に行きたいと思ったので、先日その「お熊甲祭」(だいたいみんな頭に「お」をつけて呼ぶ)に足を運んできた。
どんな祭りなのかその様子を紹介したいと思う。
お熊甲祭は久麻加夫都阿良加志比古神社の例祭
久麻加夫都阿良加志比古神社、この神社名をいきなり読める人はそうなかなかいないと思う。
こちら、こう書いて「くまかぶとあらかしひこじんじゃ」という。
お熊甲祭は、この久麻加夫都阿良加志比古神社の、五穀豊穣に感謝する例祭だ。
久麻加夫都阿良加志比古神社は熊甲宮とも呼ばれ、古代、中世以来「熊来郷」総社として近郷から尊崇されていた。
その祭神は「阿良加志比古神」と「都努加阿羅斯止神」だ。都努加阿羅斯止神(つぬがあらしとがみ)は意富加羅国(おおからこく)の王子だそうで古代朝鮮半島との深い交流がうかがえる。当神社の紹介でも「大陸の渡来神を祀る」とされることが多い。
久麻加夫都阿良加志比古神社だ
自分が到着したのは午前9時くらいだった。すでに祭りは始まっていて末社の神輿や大枠旗がすでに数基その境内にいた。
はい、このとおり
町内の各集落には19の末社があり、そこから神輿や大枠旗が天狗面をつけた猿田彦に導かれながら鉦(「かね」または「しょう」)や太鼓の音とともにこの久麻加夫都阿良加志比古神社に集まってくるのだ。
末社では朝の7時くらいから神輿に神様を移す儀式も行われているため、お熊甲祭全体から見ると、自分の到着は少し遅れている。
境内やその周りには屋台も並んでいた
境内はかなり広いのでその中や、このように外にも屋台が並んでいた。
子供たちからするとこれが一番の楽しみだろう。自分も子供の頃に来た時はそうだった。
なお、中島町の小学校では9月20日は平日でも休みになる。
枠旗と鉦太鼓のリズムと猿田彦が独特
この熊甲二十日祭、国指定重要無形民俗文化財とされているのは、正確にはその祭りの中の「枠旗行事」だ。
要するに、この祭りの見どころが猿田彦が先導して末社からやってくる枠旗だということだ。
実際、ああいう大枠旗が練り歩く祭りって同じ能登でも見かけない。天狗面を着けた猿田彦やその踊り、鉦の音も独特だ。
その祭りの独特さを、以下写真で紹介したいと思う。
これが枠旗
高いものでは20メートルくらいある。
ただ、近年、町の過疎化で担ぎ手が不足してきたことにより少人数でも担げるようにサイズが少し小さくなったりしているそうだ。むかしは一部落から数基出ていたものが、いまでは一基だけとか数も減っている。
祭りで神輿などを担いだことがある人ならわかると思われるが、それでも小さくなってきたとは言えかなり重い。
重い枠旗をこんな感じで持ち上げてしまう皆さん
練り歩いている最中、また境内でも掛け声とともにこのように持ち上げてみせてくれる。
神輿だって負けじと持ち上げる
これ、簡単そうに見えるけど、かなり大変。神輿とかって、一人じゃまず担げられないものだから、担ぎながら一つ間違えると圧し潰されるんじゃないかという怖さを感じてしまうものだ。それをこうしてさらに持ち上げるのだ、勢いみたいなものがないとまず出来ない。
勢い付けてくれるのが…
こちらの太鼓や…
鉦だ
「トントント~ント♪ ト~ン♪ ト~ン♪」(「トン」は「カン」にも聞こえる)といったこれらのリズムは日本の祭りではあまり聞き慣れない。
出張で韓国に行ったことがある自分の親が言うには、韓国の祭りで同じ音を聞いたそうだ。
古代朝鮮半島と縁があるのが、その音やリズムからもわかるわけだ。
そしてこれらを先導するのが、
天狗面をつけた猿田彦だ
猿田彦は日本神話に出てくる神様だ。天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先導した国津神として有名だ。鼻も長かったようだ。
踊りが独特
伸脚したと思ったら、片足でハネたように右に旋回、と思ったら左に旋回していたり、動きが読めない。どこかユーモラスでこれ見てすぐに真似ろといきなり言われても一般人にはまず無理な独特な動きだ。
この動きを出来る人も年々減少しているようで、若い人不足から継承にも苦労しているという。出来る人がいないから結局年配者がやり、その繰り返しで踊れる人の数がますます先細っていくようだ。
なお、猿田彦が持っている棒、「メン棒」と言うそうだ。
拝殿までやって来る神輿や枠旗
猿田彦が拝殿のきざし(階段)をメン棒の先で打って到着したことを告げ、神輿や枠旗もこの拝殿前へとやってくるのだが、持ち上げながら走っていくから見ていて面白い。
こんな近くまでやって来る
しかも走って。
到着時に鈴を鳴らしまくっていた人もいた
意味は分からないがとにかく熱い。
太鼓も走っていくのでそれを追いかける叩き手
子供や中学生くらいの女子が太鼓を叩いていることが多かった。いきなり太鼓の担ぎ手が拝殿に向かって走っていくので、彼ら彼女たちも走って追いかけて追いかけながら叩いていた。
はい、こっちでも
その姿がなんだか微笑ましかった。
ここで狛犬もチェック
祭りとは直接関係ないかもしれないが、狛犬写真家を自称しようかと目論むものとしては狛犬も気になったので撮った。
吽形と
阿形だ
枠旗をバックに撮影だ。こういう撮り方は祭りの日でないと無理なので、自分としては撮らずにはいられなかったのだ。
神輿とも
もう一回枠旗と(横顔で)
狛犬から見てもこの日は祭りだ。
担ぎ手不足も何のその
気がつくと境内で旗が何本も立っている状態に
狛犬の写真でもわかるように、境内にはどんどん神輿と枠旗が入ってきて、並べられていく。
ここで改めて言うが、そんな枠旗も中島町では担ぎ手が不足している。
過疎化で人口が減って高齢化も進んでいるのでどうしてもそうなる。
おまけに、二十日祭として9月20日開催を頑なに守り続けているので、中島町から仕事で都会に出ていった人たちも休みが合わないという理由で祭りの日になかなか担ぎに戻ってこれないのだ。
そこで、ここ十年くらい前から大学生を呼んで担ぎ手になってもらっている。
大学生の能登地域における民俗行事参加というものだ。神戸大学や神戸学院大学、また地元石川県の星稜大学の学生たちの若い力を借りているのだ。
このお熊甲祭は、時代に合わせて一般人が休みである土日に開催してはどうかという意見がありながらもそれを拒んで二十日開催を守っているくらいなので、地元の者以外の助けを借りるという話にも最初は抵抗があったようだ。
それでも担ぎ手がいなくなってしまうとそのうち祭りそのものが消滅してしまう。
因習になっている伝統を一部緩和するか、伝統を守ってそのうち消滅するかの二者択一を迫られたわけで、その結果、二十日開催はそのままに、大学生に助っ人を頼む道を選んだようなのだ。
ちなみにこれ、国の重要無形民俗文化財に指定されているのだから保存せねばというプレッシャーもかなり大きかったようなので、いろいろ興味深い話だ。
ということで若い人たちはだいたい大学生だったりする
中には仮面ライダーみたいなすごい腹筋をしている人もいたが、大体の子はカラダの線が細く見えた。地元の人たちは畑仕事などで鍛えられてガタイがいいので、比べるとどうしてもスマートに見えてしまうのだ。それでも貴重な戦力だ。
中には女子大生たちも
女性だけで担ぐ枠旗もあった。男たちが担ぐそれと比べると旗の長さは女子用に短かったけど、これはこれで華がある。
女子だって持ち上げちゃうし
自分、これにはちょっと感動した。
そして羨ましくなった。
彼女たちもむちゃくちゃ楽しそうに持ち上げるのだ。一つのことを達成している充実感がその顔に溢れているのだ。
これ絶対に思い出になるし、また来年も担ぎに来たいと思うんだろうなと、ふと思うと、なんだか羨ましくなって見ていてその興奮の輪の中に入りたくなってきた。
もちろん男子も楽しむことにかけては負けていない
重いだろうけど、やり甲斐ありそうなのだ。
猿田彦にも後継?
独特の踊りが特徴の猿田彦もだんだんと地元の年配者しか踊れないという状態になってきている。
独特すぎて、学生が一朝一夕で覚えられるものでもないようなのだ。
この継承にも黄色信号が灯されている訳だが、当日の祭りの現場ではこんな光景も目にした。
小さな子供が
大人と一緒に
猿田彦を演じていた
おそらく地元の小学生だろう。
これって、後継者に当たるのではないだろうか。
それも一人だけじゃない
少なくとも二人ぐらいいただろうか。
一緒に踊ることで受け継がれているようなのだ。
一演技終えて一緒に戻っていく姿も微笑ましい
こちらの二人はどうやら「じいじ」と「孫」のようだ。
じんわりと泣けてくる、ハートウォーミングな光景だった。
祭りの中の楽しそうな風景
ここからしばらく祭りの光景を写した写真を羅列したいと思う。
このお熊甲祭の楽しさが伝われば幸いだ。
ほかの子供たちも活躍
朱雀、白虎、青龍、玄武の四聖獣の旗を持った子供たちもいた。
猿田彦がわんさか
ちっちゃい子供の中にはこの猿田彦を見てマジでビビって泣きそうになっていた子もいた。
枠旗には猿田彦の人形がくくりつけられている
枠旗によって人形のデザインも異なっていた。これならまだ子供も平気だろう。
恵比寿神輿も登場
神職さんも登場
この後、拝殿で神事も行われていた
ちょっと休憩
イケてるTシャツ
酔っていてもお熊甲の鉦太鼓の音を聞くと足がひょいひょいするそうだ。
皆さん、飲みまくり
自分としては、この担ぎながら飲んでいる姿が一番「祭りだな」と思えて好きだ。
飲みすぎたのだろうか?
拝殿の前では太鼓を叩く女子
小学校低学年くらいの子が大人顔負けの迫力で叩いていた。叩いている時の姿勢が何よりいい。
男子も負けてねぇ
動きがキレッキレ。やっぱり太鼓やっている人はカッコイイね。
突風が吹いて捧げ物を落としてしまう一場面も
この日は途中から風が強かった。
枠旗も傾く
いや、これは風のせいではなくて自分たちでやっている。
綱を持っている人もラクではない
ときにはこんなに傾けたりも
これらは意図してやっている。
というのも、この枠旗行事の一番の見せ場に川の側で行う「島田くずし」という枠旗を使った大技があるのだ。
700メートル離れた加茂原へ
境内に集まった枠旗と神輿は、神事の後に本社の神輿に続いて700メートルほど離れたお旅所「加茂原」へと向かう。そこでは「島田くずし」と呼ばれる妙技も見れるのだ。
島田くずしとは、上の写真のように枠旗を傾けていって、地面すれすれのところをキープしながら旗を左右に振るという荒業だ。
旗を振ったことで見物客の女性の、むかしの髪型である島田髷が崩れたことからそう呼ばれている。
言葉にすると簡単に聞こえるが、ただ担ぐだけでも重い枠旗を地面すれすれにバランスをとりながら支えるのだから全身にかかってくる重さも違ってくる。しかもその上で人も乗っちゃうし。失敗したら潰されてしまう危険のあるとんでもなく難しい技だ。
実際、担ぎて不足の件もあって、メインの見せ場であるこの島田くずしを出来なかった年もあった。
学生たちを見くびっているわけではないが、農作業等で普段から鍛えている地元の人達ではないと出来ないとも言われていた。
それでも近年、復活してきたようで2年前の2014年にはその島田くずしをお披露目できたという。昨年は雨で中止になってしまったものの、その島田くずしも大学生たちの手を借りながら引き継がれるようになってきているそうなのだ。
(もっとも、むかしの地元民からすると、島田くずしの傾きがまだ甘いそうなのだが)
自分もその島田くずしを見に加茂原へ向かう
枠旗と一緒に移動した。
すると道中、一基が停まって何やら傾けだした。
あっち側(縦方向)に傾けていた
島田くずしでは手前(横方向)に傾けるので、あれ?変だなと思っていると…
旗を抜いていた
この枠旗、大きすぎて重すぎて河原に持っていってもいまの人たちでは島田くずしができないそうなのだ。そのため、事前に片付けてしまうそうだ。
むかしの地元の人たちって、どんだけ力があったんだ?
旗の先端
こんなのが振られるのだ。そりゃ島田髷も崩れる。
こうして解体している様子を見ているだけでもなかなか面白かった。
河原ではすでに数基が待機していた
ここが加茂原だ。
後方からも続々と枠旗がやってくる
もちろん太鼓や猿田彦も
この広い場所で島田くずしが行われる
いよいよ一番の見せ場が始まるなと、自分もその瞬間を撮ろうとカメラの電池も交換し準備万端整えていた。
ただ、天気が悪かった。
風が強く吹いていただけでなく、いよいよパラパラと雨も降り始めてきたのだ。
見物客の中にはちらほらその場から去ってお店の前で雨宿りしている方もいた。
河原の前のお店や家屋
自分は、小雨程度なら問題なかった。むしろ去っていった人がいたことでより良いポジションが空いたので、そのスペースへ火事場泥棒のように入っていけた。
多少の雨は自分にとってはラッキーだ、そんなことを考えていたのだ。
ところがである。
嵐になった
当たる雨粒が痛いと思うくらい強く降ってきた。
寒いし、濡れるしで結局自分も避難するしかなくなったのだが、ラッキーなんて思ってギリギリまで粘ろうとしていただけに、避難が遅れて雨宿りできるスペースがなく、家屋の裏の軒下に行くことになってしまった。
そのポジションからではもちろん河原の様子もよくわからない。
そのうち道路で枠旗の解体作業も始まった
雨は一向にやまず、そのうち「撤収!」の声が聞こえた。道路を見ると、枠旗は次から次へと解体されていくのだった。
傘を持っている他のお客さんも帰り始め、残念ながら祭りはそのまま終了してしまうのだった。
猿田彦も傘の下
祭りに参加していた方々は皆さんビッチャビチャだった。
仕方がないので解体作業を改めて撮影
ただ、そんなビチャビチャな状態で作業をしていても、皆さん楽しそうだった。(もちろん解体作業は慎重に)
これぞ祭りだ、そう思えるくらい皆さん爽やかだった。
最後まで駆け回っていた恵比寿様
かっこよすぎだ。
まとめ&悔い
いまから島田くずしという場面で突然暴風雨に見舞われて、それを写真に収めることなく終わってしまったお熊甲祭2017であったが、翌日の新聞を読んでみると、あの大雨の中、一度「島田くずし」をやっていたと書かれてあった。しかも写真付きで。ちょうど自分が、家屋の裏の軒下で雨宿りしていたときに行われたようなのだ。
その記事を目にして、自分はがっくりしてしまった。
きっと、小雨が降ってラッキーなんて思っていたバチだろう。
いや、現地でも確かに北國新聞の方が雨の中で撮っていた。記者さんたちの根性がすごいのだ。
こういうことはあまりしないが、敬意を込めてその記事のリンクを張っておきたい。
その記者魂、カメラマン魂に脱帽だ。
自分も傘を持っていけばよかった。
ちなみにその日の天気予報ではその時間の降水確率は0%だった。
自分はしばらく天気予報を信じないだろう。
まあ、それでも、足を運んで良かったと思う。
学生たちの参加、子供たちの猿田彦や太鼓など、彼ら彼女たちの楽しそうな顔を見てこのお熊甲祭がまだまだ続いてくれると、そう素直に思えてきた。
みんなで作り盛り上げる祭りって、やはりいいものだ
来年はいけるだろうか? わからないけれど、自分としても島田くずしを撮影するリベンジを来年以降果たしたい。